筆者は野球に特に関心がなく、大谷選手の活躍は耳に入ってくるので、何となく凄いことを米国で成し遂げているということはわかるのだが、詳しくは知らない。
しかし最近、コメンテーターなどにより、彼が通訳を必要としていることを皮肉られたり批判されたのを知った。
こういうのを聞くと、本当にやるせない思いになる。
でも書いたことだが、彼らは外国人、それもヨーロッパ言語圏以外の言語を母語にしている我々のような人間が英語を話すのに、どれだけの時間と努力を必要とするか、全く理解できない。
これは想像力の問題だ。
弁護士でさえ、外国語を一つも勉強しなくてもなれる米国
これは聞いて非常に驚いたのだが、フランス語の語学学校で知り合った知人のカリフォルニア州出身の米国人弁護士は高校でも大学でも外国語を全く履修しなかったという。
出身大学は確かに日本人も知るような有名大学ではないが、調べるとそこそこと思われる。
自分は必修ではないというのは何となく知っていたが、大学(コミュニティカレッジではなく)に進むなら、履修しているのではないかと漠然と考えていた。
アメリカの大学に入るのには大学ごとの入試はなく、SATという国語(英語)と数学の共通試験のスコアの他、高校の成績やら推薦状やらエッセイによって入学選考が行われるわけだが、いい大学に入るには何の科目を取っていないといけない、というような話がよく出てくる。
貧困地域の公立高校だと、必要な科目が揃わないので、とかいう話があったりもする。そういった「必要な科目」に「外国語」は含まれているのではないかと思っていた。
彼は子供の頃にも親とフランスに来たことがある、などと話していたので、貧困地域の高校に通っていたとも思えない。
社会人になってからフランスに魅了され自分でフランス語を勉強していたらしいのだが、カリフォルニアなら、高校ではスペイン語を履修したのかと尋ねたところから、その話に発展した
彼は今年47か8なので、30年前の話だし、もしかすると最近の事情は違うのかもしれないが、貧困地域とも思えない高校でも、外国語を取らずに卒業できて、まあまあのレベルの4年制大学に進学できる状況があったのは驚きである。
こういう状況下では「外国語を取得することの大変さ」を理解できない米国人が多いのも当然であろうと思う。
相手の母語能力を無視する無意識なる人種差別
これはアメリカ人とか英語圏の人間に限らず、日本人にもしばしば言えることである。
ここで日本の事例をとりあげると、とりわけアジア系外国人に対して、その日本語力で何となく下に見ている人が多い。
「そんなことはない」
と思うだろうか?
自分は外国人として英国や、フランス語圏の国に暮らした経験から、非常にこうしたことには敏感なのである。
いわゆる「白人」が日本語を話さなくても寛容、少しでも話せば「日本語お上手ですね」とおだてたり感心するものの、その他の外国人に対しては、拙い日本語だからといって、何となく下に見ている人が多いと感じる。
以前、あるタレントが面白い話として
「そういうアジア人店員がさ、時々名札に責任者とか書いてる時あるよね。え、おまえ責任者なの?って(笑)」
と話していたことがあった。これははっきり言って、かなりの問題発言であると思った。
こう言っては何だが、日本でそうしたアジア系外国人は本来の能力よりもランクを下げた仕事をしている人が多いような気がする(こういうことをいうと職業差別と言われるかもしれないのだが)。
文脈から言って、彼らの日本語のクセ(助詞を省いたりなどである)を笑いながら、続けて言っていたように思うのだが、
語彙力はそこらの日本人よりあったりするような彼らが、ネイティブではない日本語を話すからといって、その人の能力自体が低く見られてしまうことの好例である。
自分自身が、時々このようなことを外国人として感じていた。
英語圏の人間が「英語を話して当然」と考えるのも、こうした傲慢さから来ている。
その言語力=知力、と判断しがちなモノリンガルの想像力の無さ
これは上で書いたことに通じるのだが、母語以外に話せる言語を持たない人は、母語と第二、第三言語との乖離という発想がない。
いや、わかるよ、
と多くの人は言うのだが、実際わかっていないと感じる。
だからアメリカに行けば自然に英語が話せるようになると信じている人は多いし、少し話している人のことを「ネイティブ並み」などと表現したりもする。
数年その国にいてその言語を勉強したら、母語と同じレベルで話せるようになるような印象を多くの人が持っているように感じるし、自分も昔は漠然とそう思っていたような気がする。
しかし現実には、子供時代から長く過ごしていない限り、自分の中で「ネイティブ並み」とは感じるようにならないのではないかと思う。
これは子供の耳がいいとかそういう問題ではなく、せめて中等教育をその国のシステムで受けていないと、「ネイティブが普通に共有しているもの」が欠けてるからである。せめて中等教育というのは、子供によっては初等教育で欠けてるところを中等教育を受けながらキャッチアップできるだろうから。
そこがないと、ネイティブと話していて、どこか理解できなかったり、「ノリ」に合わせられないことがある。
少し話が逸れたが、そういうわけで、ある程度の年齢以上になってから長く過ごそうとも、もちろん「流暢」にはなれるのだが、母語と同じ感覚になるというのはあまりないのではないかと思う。
そうなると、常に自分の中で、「これで判断されてしまう。日本語ならもっと言えるのに」という気持ちがあったりする。何か不当に低評価を受けているような屈辱である。
大谷選手は在米4年目ということなので、もちろんそれなりに日常生活を送れたり、チームメイトとある程度の雑談をする程度の英語は話せるだろうと思う。
しかし公式の場所で、大谷選手の知力や人格を不特定多数の人間に判断されてしまいかねないインタビューを、自分の母語である日本語よりずっと劣る英語でするべきではない。
そういうことをアメリカ人が理解する日は来るのだろうか。嘆息。
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