日本人にとって、英語ができるできないで、全く見える景色が違ってくるということを主張したいと思う。
何故なら、情報の間口の広さが全く違うからだ。
そして複数の文化的発想が理解できるかできないか、ということでもあるのだ。
MBAを皮切りに、私は今、海外生活をするようになった。そこで家族でも友人でも元同僚でも、海外生活についても国際情勢についても、色んなことを言ってくる。
その度に、私はよく戸惑ってしまう。日本語でしか情報を得ておらず、日本語の発想を異国にも当てはめる人、というのは、「どこから話していいのか…」という感じになってしまう。
情報の間口の広さが全く違う
震災後、日本のネットで流行ったこととして、「海外の声」的なサイトがあると思う。
日本のあれこれについて海外の人は何て言っているのか、というあれである。
確かに、あれらの声は実際に書き込まれているものをきちんと訳しているのだと思うし、嘘ではない。
しかしそれを読んでいると、段々に「日本は褒められてばかりいる」という気分になるのかもしれないが、それは危険である。
あれは日本に特別に関心がある人や、国際性がある人が言っている抜粋に過ぎない、ということは前提としてわかっておくべきだと思う。
普段、英語メインで情報を収集するようになると、当然のことながら全体の中で日本が話題になることはかなり少ない。
そしてたまになるとしても、何か変な取り上げられ方、ステレオタイプの極みのような取り上げられ方も多い。例えば、女子高生が性の対象のような文化であることとか、女性差別に関しても欧米社会より遅れているのは事実だが、自分の体感としては大げさに言われがちであると思う。
そして多くの人が香港と誤解していたり、先進国と思っていなかったり、民主主義と思っていなかったり、と日本にかなり無関心であることも、英語で生活しているとわかってしまうことがある。
しかし「海外の声」を読むのが好きな人は、純粋な気持ちで「日本人は褒められている」という前提でいるから、実態を言いたい気持ちと、気まずくなりたくない気持ちで居心地が悪くなることもしばしば。
また、アジアでの日本の立ち位置に関しても、日本人は現在、かなり井の中の蛙と化してきていると思う。
複数の言語的発想の存在に気づくということ
日本語しかできないというのは、単に言語を変換できない、ということだけではなくて、世界で起こっている色々な事象について、異なる発想があるということに気づけない、ということでもあると思う。
いくら翻訳本を読んでいてもダメなのである。翻訳者は、日本人が理解できるように「日本であったら、こう説明しないとわからない」と親切に訳してしまうのだから。
翻訳を読んでいると、直訳がわからないのである。
直訳だと、日本人には変だから。なぜか、それは異なる発想があるからなのだ。
例えば、日本語では自分の意見について「〜である」と言い切ることはしない人が多いと思う。そう言い切ることで自分が発言元となり、誤りではないかと問われることにはなりたくない。
だから英語を話し始めても”I think…”とか ”maybe”とか多用する日本人が多い。
ところが欧米式ではもっと言い切らなくては意見をいう者として一目置かれない。そして誰に対しても通すという強さで話している。
こういうことに気づけたのは、英語を喋るようになったからだ。なぜ日本人は自分がそういう考えであるということについて、maybeと言うのか。
集団の中での同調主義、自分はさほど強くないと思っていたのに、やはりそういう文化に生きているのだとはっきりわかるようになった。
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