「日本の英語教育には問題がある」というのは、昔から定説のように何度も何度も言われてることで、多くの人が同意しているようである。
自分は、これに対して半分同意ではあるのだが、あと半分は「そういうわけでもない」と思っている。
今回はそれについて色んな角度から考えてみたいと思う。
日本は本当に特別英語レベルが低いのか?
ここである。
よく見られる国別英語力ランキングで出てくるのはEFランキングというもので、この順位が低いというのが注目されるが、自分は

こちらの意見に同意で、このテスト結果に代表性は乏しいと考える。
また、それと矛盾するようだが、こうしたテストで上位に来る国というのは、
などがかなりランクインしている。
そうした国と比べるのはナンセンスであると思う。
自国語のマーケットが小さすぎる北欧やオランダ
まず、オランダや北欧の国々の言語というのは、ゲルマン語系とされるのだが、英語との互換性はかなり高いのだという。
そのため、小学校半ばから英語を習い始め、中学生になる頃にはかなり話せている生徒が多いという。
そしてドイツよりも流暢な人が多いのは、彼らの言語の人口が小さいからというのが大きいと思う。
自分は北欧出身者に何人か知り合いがいて、時折、”j”と”y”が逆に発音されている?と感じる以外は発音やアクセントなどもほぼネイティブに近いと感じる。
そこで彼らに聞いてみると、
ということ以外では、
というのが自分たちが英語に馴染んでいる要因ではないか、と語っていた。
つまり、TV番組にしても、もちろんローカルのTV局も番組もあるのだが、それだけでは足りない。どうしても英米の番組を見る機会が多くなる。それには字幕がついているのだが、小さい頃から見ているので、馴染んでいる、というようなことを言っていた。
また、ゲームなどをするにしても自国語に翻訳されていないことが多いので必然的に英語を使用するようになるのだという。
ただし、自分はかなり英語が下手くそなスウェーデン人に会ったことがある。単に鈍っているというだけではなく、チャットなどでもかなり間違いが多く、そんなに英語力が高いように感じなかった。
さりげなく彼の経歴を聞いてみると、日本でいう高卒に至ってないようである。
そのため、これらの国でも全員が流暢というわけではない。
英語ネイティブと自覚している旧英領出身者
自分はMBAでもケニア人のクラスメートがいたが、彼は自分のことを英語ネイティブと自覚していたと思う。
ケニアを含め、アフリカの国というのは現地語とは言っても「ケニア語」「ナイジェリア語」というものがあるわけではない。
彼らの国というのは、19世紀にヨーロッパが植民地支配のためにアフリカに勝手に線を引いて国に分けただけなので、色んな民族が一緒くたに「一つの国の国民」とされてしまった。同じケニアの中でもスワヒリ語を現地語としているのは一部で、実に60もの言語が分布しているのである。
だから同じケニア人同士でも、民族が違えば互いの現地語は通じない。
そのため、公用語として英語とスワヒリ語があるわけだが、実情は英語が主だということである。
なので、学校に上がると、学校の使用言語は英語なのだという(これは地域や学校の種類によるのかもしれないが)。
そうした国で、インターネットを使ってEFテストを受けてみようという層の結果が高くなるのは当然のことである。
また、アフリカを離れてインドの場合も、そこまで言語が分布しているわけではないが(ヒンドゥー語、ベンガル語が主だと思うが、それぞれの言語圏は都市レベルで分かれている)、やはり富裕層の多くは小学校から使用言語が英語の学校に行くケースが多いようである。
自分のMBAのクラスにはインド人が多かったが、彼らはやはり自分たちは英語のセミネイティブ、というような意識が高かったように思う。
旧英領でない国で「日本以下」と感じる国は多い
例えばタイやベトナムである。
ある程度英語力がある人で、これらの国を旅したことがあるなら、誰もが思うのではないだろうか?
というか分布として極端だという感じがする。
特にタイの場合は、観光大国だけあり、観光従事者である程度話せる人の割合は日本のそれより高いと言えるのかもしれないが、
というレベルで、日本人の「英語全然できません」よりもはるかにレベルが低いと感じる。
日本人なら、日本語に英単語がカタカナ化したものが多く入っているのに比べて、おそらくタイ語にはそういうことはないのではないだろうか、相当基本的な単語も浸透していないと思う。
なので、英語併記されたメニューを渡されて、例えばOrange juice pleaseと言っても通じない。
メニューでどれかを指差しさせられる。そこに書かれたタイ語を読んで確認するのである。
日本のウェイトレスなら、オレンジもジュースも日本語になっているので、ほとんど理解できるだろう。
また、ヘボン式ローマ字は戦後以降に義務教育を受けた日本人なら、ほとんど全員身についているのではないだろうか。
もちろんそれで英語が読めるというわけでなくとも、ある程度地名などを認識することができると思う。
しかしタイのタクシードライバーなどで、How muchなどのやり取りができる人でも、タイの地名をアルファベットで表記したものを読めない人が実に多い。自分のスマホの地図で場所を示しても読めないので、自分のスマホで示してくれと渡されることが多い(そうするとアルファベット検索してもタイ語表記で出るため)。
また、日本人がつい英語で話しかけてしまいがちな外見をしたロシア人やブラジル人(だけではなく南米は全般的に)も、全体的なレベルは日本より高いとは言えないのではないか?と思えるケースが多い。
日本の英語教育で問題なのは
これは「文法が主体」とかではなく、単純に
ということと、
点にあると思う。
中高で6年間も勉強しているのに…は間違い。少なすぎる
近年は小学校に英語の授業が組み込まれることになったが、それでも週に1〜2時間のお遊びのような時間だという。
そういうわけで「本格的」に英語を勉強し始めるのは中1になると思うのだが、それでも公立中学校では50分授業が週に3回、私立でも5〜6回で、これは少なすぎるとしか言いようがない。
もう12歳にもなっていて、日本語で形成された思考はそこそこ育っているのに、
This is a pen.
半年以上経っても
I am learning English. (現在進行形)
では、自分が持っている思考を表現するのに程遠いし、そんなにゆっくりなペースでは身につくものも身につかない。
逆に自分が日本語で表現できるレベルとの差に、「英語ができない」という自覚が募るだけである。
これは年齢が小さいほど、語学ができる自覚を持ちやすいのはなぜか、というところで語ったように

思考が育ち、知識も増えるほど、それを表現するための語学のレベルは上がるので、中学生が英語を始めて、中学生なりの思考を実現するための英語力を身につけようとするなら、週に15時間ほどは必要だし、そのペースで何年か続けなければ身につかないだろうということである。
単語力も圧倒的に足りないし、文法力も、英語の構造に対する理解も圧倒的に足りない。
オランダ語やスウェーデン語のように互換性の高い言語と違い、日本語というのは英語とは全く異なる言語で、コンセプトそのものが違う。
そこからいけば、彼らより数倍の時間をかけなければ、その互換性のなさを埋めることができないのに、彼らよりむしろ数年遅くスタートし、しかも週に2時間半(50分x3)では話にならないのである。
英語が「話せない」教師の元に、「和訳できればいい」のが間違い
これは私の提案から話すなら
という現状の逆にすべきである、ということである。
といっても、現状のネイティブ講師というのは、大学を出たばかりの若者を適当に集めている感が強く、彼らも若い時の自分探しのような感覚で日本という国に1〜2年住むための手段として利用していることが多い印象がある。
そうではなくて、きちんとTESOLなどの資格を持ち、英語を教えることに情熱を持った人材を雇用して、彼らをメインにした英語教育を確立することである。
そして授業はオール英語にすべき。日本語でチマチマと和訳をすることに終始していては、
英語を見て漠然と意味がわかるようにはなっても、いつまで経っても自分の言葉として発することができない。
そこで日本人教師は、オール英語であるために、どうしてもついていけない生徒や、理解が及ばない時に手助けするサポート役に回れば良いのではないかと思う。
もちろん日本人でもTESOLの資格を持ち、ネイティブとまともに話せるだけの英語力のある人ならメイン側に回るべきである。
しかし授業はオール英語。
ただ予算や体制的に、すぐには実現できないかもしれないが、日本人の英語力を上げるためなら、それくらいのことをしないとならないと思う。
日本語は発音が比較的簡単な言語
たとえば「っ」とか、そのあたりは難しいようだが、日本語は発音が比較的簡単な言語である。
そのため、その日本語に慣れきってしまった頭で12歳で急に英語という言語を聴き始めても、なかなか捉えられない音は多い。
それに比べて、中国語は広く知られているように声調というものがあり、日本語に存在しない音が多い。
自分は英語だけではなく、とあるヨーロッパ言語(英語よりさらに音が多く発音が複雑)の語学学校に通った際、中国人や華人が文法はあやふやなまま、ばんばんと話し出すことに感心していたが、スピーキングとリスニングは表裏一体であり、リスニングが彼らに比べて不得手な我々はインプットが少なく、話し出すことができないのだろうと思う。
しかし、これはその言語においても、英語においてもそうだが、書いたりすると日本人の方が全体的に正確度が高い。
これは日本語そのものが読み書き重視の言語だからではないだろうか、と私などは考えている。
つまり言語スイッチがオーラルよりも読み書きに傾いているのである。
つまり、現状では可能な範囲としては間違ってはいない
上記のことを読んで、
と感じた人は多いのではないかと思う。
そう、確かに現実的ではないのである。
それでも週に2時間半というのは少なさすぎるので、もう少し増やしたほうがいいと思うが、それでもそう極端に増やすことは不可能だろう。
日本人が英語が不得手なのは
ことが原因であって、英語の授業が英文和訳になりがちなのも、そもそも構造があまりにも異なるので、少ない時間数ではそうならざるをえないというところである。
また、こうも言語構造が違えば
になってくる。
これは確かに、byなのかwithなのかなど、どっちでもいいしネイティブも間違える(というか人によって違う?)ようなところにこだわりすぎなくてもいいとは思うのだが、
そういうイディオム的なところではなくて、
冠詞の概念とか、SVOなど構文的なところ、完了形の概念は習わなくてはどうしようもないと思う。
よく、「日本の英語教育は文法中心だからだめだ」というが、これも英語と遠く隔たった言語で思考するベースからすると、新しく違う言語脳を作るには効率性からいって不可欠なところだろうと思う。
そして最も大事なのは
ことではないかと思う。
もちろん外国にもいろんな形でいじめはあるのだが、日本のいじめ風土は独特で、そもそも授業中に自ら発言したり、人と違うこと(英語の発音が上手いなど)を見せると「浮く」「調子に乗っていると思われる」「痛い」という雰囲気が一番、英会話力を学校教育で伸ばすということの阻害となっているのではないだろうかと思う。
とりあえず現状では家庭で機会を与えるしかない
そういうわけで、そもそも日本語というあまりにも英語とかけ離れたコンセプトの言語を母語とした国に生まれた以上、かなりのハンデがあるといえる。
ようやく小学校で英語の授業が出てきたにせよ、年間で70時間だとかその程度ではあまり期待できないのは確かだろうと思う。
「本格的」とされる中1でも公立ではその倍程度なのだから、これは全く足りない。
かといって他の教科の時間を減らすわけにもいかない。
日本の英語教育は間違っているのではなく、日本人にとって必要な時間、勉強してないだけなのである。
学校でそこを期待できない以上、本人や家庭で補っていくしか仕方がないと私は考えている。
今の時代はネットで安く英会話レッスンを受けることができるのだから、それを利用しない手はないだろう。
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